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作曲者紹介
introduction
フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin
(1810.2.22~1849.10.17)
フレデリック・フランソワ・ショパンはロマン派を代表する作曲家兼ピアニストです。作曲された多大な作品の殆どがピアノ曲であり、構造は打楽器であるピアノという楽器から、独自の和声と書法を用い、まるで歌曲であるかのような旋律美を生み出したことから、「ピアノの詩人」と呼ばれています。
ショパンはポーランドのワルシャワ公国ジェラゾヴァ・ヴォラ生まれ。父親はヴァイオリンとフルートを、母親はピアノを演奏し、幼い頃から音楽に親しむ環境に恵まれていました。4歳の頃から母と姉にピアノを習い、瞬く間にその才能を開花させ、7歳で「ポロネーズト短調」を作曲、8歳の時にワルシャワで演奏会を開き”モーツァルトの再来”と話題になります。
16歳でワルシャワ音楽院へ入学。3年後首席で卒業し、ウィーンでリサイタルを開き大成功を収めます。その後2年ほど創作に励みながらウィーンを拠点に演奏活動を行い、21歳の時にパリへ移住します。
ショパンはパリで公開演奏会を行うことは殆ど無く、貴族や芸術家、文豪たちが集う社交サロンで自作曲を披露していました。体が弱かったショパンは演奏旅行で世界各国を巡ることを好まず、こうした活動をすることなくサロンに出入りするエリート達によって作曲家として多大な名声を得ることになった事は、非常に特異なことでした。
また、このサロンの交流で、後のショパンの人生に深く関わることになる、フランス文筆家であり男女同権運動家であったジョルジュ・サンドと出会います。この頃からショパンは喘息の発作や喀血などに悩まされるようになり、健康状態に陰りが見え始めたのですが、家族同然に過ごしたサンドとの9年に渡る交際期間はショパンの創作活動の円熟期となり、悪化してゆく健康状態の中でも多くの傑作が生み出された時期となりました。
しかし35歳頃から健康状態は悪化、献身的に看病していたサンドとも破局を迎えます。生活のため38歳の時には演奏旅行でイギリスへ赴き、ロンドンでヴィクトリア女王の御前演奏も行いますが、パリへ帰国後は病状が更に進行し、翌年1849年10月、39歳の若さでその生涯を閉じることになりました。
200曲を超えるショパンの作品の中で、最も数多く作曲されたものはマズルカでした。マズルカはポーランドの民俗舞曲です。再びその土を踏むことは叶いませんでしたが、ショパンは常に故国ポーランドへ想いを馳せていました。
葬儀はパリの寺院で執り行われ埋葬されましたが、ショパン本人の望みにより、その心臓だけは姉の手によって故郷へ持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会へ安置されています。
◆◆おすすめ作品解説◆◆
バラード第3番 変イ長調 op.47 (上級)
バラード第4番 へ短調 op.52 (上級)
エチュード第17番 op.25-5 (上級)
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58 (上級)
マズルカ第10番 op.17-1 (中級)
ワルツ第7番 嬰ハ短調 op.64-2 (中級)
ワルツ第9番 変イ長調「別れのワルツ」 op.69-1 (中級)
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