P.I. チャイコフスキー (1840-1893) 交響曲第6番 ロ短調〈悲愴〉 Op.74

 日本でも広く愛好されているチャイコフスキーだが、音楽に対する趣味嗜好は聴き手によってまちまちなのであって、中にはあまり好きではないという人もいる。特によく耳にするのが、チャイコフスキーは感情過多、という批判だ。笑うにせよ泣くにせよ、いちいちオーバーリアクションで疲れてしまう、ということなのだろう(そういう人はたいていブラームス好きだったりする)。なるほど確かに、チャイコフスキーの音楽はよく感情を爆発させる。今回演奏される悲愴交響曲など、その最たる例だといえよう。しかし、だ。言葉も映像も使わず音楽だけで過剰とも思えるほどの感情を表現するというのは、考えてみればすごい技術である。私たちは彼の音楽を聴くだけで、神経をくすぐられ、心をえぐられるのだ。聴く者の内面に音楽がずけずけと入り込んでくる、と言ってもよいかもしれない。 それを不快に感じる人もいるのだろうし、無理に好きになれというつもりもない。だが長い人生、一度くらいは音楽に身を任せ、笑ったり怒ったり泣いたりする経験があってもよいのではないか。そんな時、悲愴交響曲は実によき伴侶となってくれるだろう。なお同曲の通称として日本では〈悲愴〉が定着しているが、原語の「Pathetiqueパセティーク」はギリシャ語の「Pathosパトス(感情・情念)」に由来する言葉であり、悲しみに限らず情動一般を指すニュアンスがある。その意味で、この標題は第6交響曲に限らずチャイコスフキーの音楽全般を指すのにも適したものだと思うのだが、いかがだろうか。

 第1楽章はAdagio - Allegro non troppo、序奏部を持つソナタ形式。深く暗いコントラバスに先導され、ファゴットが呻くような動機を提示する。速度を上げて主部に入ると、先ほどの動機に基づく第1主題がヴィオラに出る。不安と焦燥感に塗り込められた音楽はやがて激高するが、いったん静まったところで慰めにも似た第2主題がヴァイオリンに現れる。続いて夢の世界へ逃避するかのようなフルートの副次主題。しかしそんな甘い夢は、嵐のような展開部のフォルティシモによって引き裂かれる。頭の中を引っ掻き回されるような混乱、重くのしかかる宿命。再現部の前半はほとんど展開部に飲み込まれており、激情のままひた走る。トロンボーンによる絶望的な慟哭。第2主題による慰めさえ、もはや心に届かない。うつろな表情のまま、すべてを諦めたかのような宗教的祈りのなかで静かに終わる。

 第2楽章はAllegro con grazia、三部形式。5拍子による優美だがどこかいびつな舞曲。中間部では低音楽器にドローン(同一音の持続)が見られる。まるで上半身は艶やかに踊りつつも、その足は鎖に繋がれているかのようだ。主部を再現した後、コラール風のコーダに入り、ドローンの響きのなかに消える。

 第3楽章はAllegro molto vivace、スケルツォ楽章だが、一般的な交響曲における終楽章の役割も兼ねている。落ち着きのない前奏に続き、ヴァイオリンがスケルツォ主題を歌う。一通り盛り上がった後、今度は行進曲風の主題がクラリネットに出る。音楽はこれらの両主題を軸に進むが、やがて波のうねりに似たブリッジを経て行進曲主題が力強く鳴り響く。1楽章の苦悩に対する勝利を思わせる音楽だが、しかしその響きは地に足が付いておらず、自暴自棄の雰囲気さえ漂う。平凡な作曲家であればもっと単純で格好のよい曲を書くだろう。この虚構にまみれた軽薄な勝利こそがチャイコフスキーの真骨頂である。

 第4楽章はAdagio lamentoso - Andante、三部形式。虚構の勝利が瓦解した後の、底なしの虚無の音楽である。交響曲の終楽章にこれほど暗い曲が置かれるのは、当時としては極めて稀であった。主要主題は第1・第2ヴァイオリンが1音ずつ交互に引き分ける仕掛けになっている。ホルンの信号音に先導された中間部では最後の力を振り絞っての飛翔が試みられるが、そうした足掻きも功を奏さず、やがて絶望の中に墜落していく。最後はまるで命の灯火が消えるかのように、深い静寂の中へと溶け込んでいく。

出典

NHK交響楽団 大分公演、iichiko総合文化センター iichikoグランシアタ(2014.3.2)、パンフレット。

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