【コラム】現代的〈悲劇〉の本質 ――マーラーの第6交響曲によせて

 悲劇には、外因的なものと内因的なものの二種類がある。歴史が古いのはおそらく前者だ。運命だとか社会だとか、自分の与り知らぬところから持ち込まれる(=外因的な)悲劇の系譜は、それこそ紀元前ギリシアにまで遡れよう。だがそうした悲劇は、問題となるその外因さえなくなればすぐに解消するものでもある。だからギリシア演劇では、「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる神様が終幕近くで強引に外因を取り除き、物語を大団円にしてしまうことも少なくない。あるいは今回のプログラムにある《ガイーヌ》にしても、ハッピーエンドへの道はギコという分かりやすい悪役を排除することで開かれる。

 一方、現代日本に目を転じれば、そうした悲劇の外因は(決して消滅したわけではないものの)相対的に縮小しているようだ。事実、我々の多くは他の時代・地域に比べ、貧困や戦争といった古典的な悲劇の種からそれなりに距離を置くことができている(先般の震災は特大の例外だろう)。しかしそれにもかかわらず現代に悲劇が満ちているのだとすれば、その本質はおそらく内因的なものだ。傍目にはどれほど幸福に見えようと、そんなこととは無関係に胸中に去来する、極めて個人的かつ精神的な悲劇。近代が終わり現代の始まった100年前に、マーラーが〈悲劇的〉と形容された彼の第6交響曲で描いたのは、そんな(我々の時代を象徴する)内因的悲劇ではなかったか。美しい妻を娶り、二人の愛娘を授かり、宮廷歌劇場の指揮者として時代の頂点に君臨してさえ、なお拭い去ることのできない痛恨の「うめき」が、そこからは響いてくる。90年代以降の日本でマーラーが広く支持されている背景には、ひょっとするとそうした内因的悲劇への共鳴があるのかもしれない。

出典

東広島交響楽団第15回演奏会、広島大学サタケメモリアルホール(2012.8.14)、チラシ。

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