ドミートリー・ショスタコーヴィチ (1906-1975) 交響曲第11番 ト短調 〈1905年〉 Op.103

 〔承前〕1917年のロシア革命勃発に際し、既に有名な音楽家となっていたラフマニノフは海外へと逃れることができたが、当時11歳のショスタコーヴィチにそのような選択肢などなかった。結果、彼のその後の人生は、新たに誕生したソヴィエトという巨大組織の思惑に翻弄され続けるものとなる。当局の指針に背く者は粛清。そんな苦悩の時代を辛くも生き抜いたショスタコーヴィチが、独裁者スターリンの死後に書き上げたのが交響曲第11番であった。同作は、かつてロシアに共産主義運動が生じる契機(ひいてはソヴィエト成立の遠因)となった1905年の「血の日曜日事件」を主題とする、いわば「音による歴史絵巻」である。

 事件のあらましは概ね以下の通りだ。帝政ロシア末期の1905年1月9日、貧困と飢餓に苦しむ人々は生活の改善を求めサンクトペテルブルグの宮殿前広場に集まった。ところがこの群集に向けて軍隊が発砲、数千人の死傷者を出す大惨事となる。交響曲はこの事件の経過を辿る4つの楽章で構成されており、切れ目なく演奏される。また各楽章にはそれぞれ標題が添えられている。

 第1楽章「宮殿前広場」はAdagio、通常ならソナタであるべき楽章だが、明確な形式は認めにくい。陰鬱な雰囲気の主要主題が前奏なしでいきなり提示され、ティンパニとトランペットの不気味な呟きへと引き継がれる。楽章全体はこれらの動機をベースとし、その上に2つ革命歌の旋律を順次織り交ぜながら展開していく。先に登場するのはフルートが歌う《聞いてくれ!》、いまひとつは曲の後半で低弦に現れる《夜は暗い》である。帝政ロシアによる圧政が、宮殿前広場の重苦しい雰囲気に仮託されている。

 第2楽章「1月9日」はAllegro、やはり明確な形式を持たないが、内容的に全曲の中核を成す楽章である。民衆の行進を表す主題が低音木管に現れ、様々に変奏されていく。音楽はしばしば調性的な安定感を欠き、また時折挿入される変拍子とも相まって次第に緊迫の度合いを高めていく。やがて行進が止むと第1楽章の主要主題が鳴り渡り、群集が宮殿広場前に到達したことを暗示する。突然、銃声を模したスネアドラムの打音。広がるざわめき。追い打ちをかけるように浴びせられる打楽器の連打を文字どおり「引き金」として、音楽は阿鼻叫喚の地獄絵図となる。苛烈を極める大音響がしばらく続くが、この楽章で最も印象的な箇所はむしろその後だろう。銃声が止み、動く者の絶えた極寒の広場。その惨状を、ショスタコーヴィッチは恐ろしいほど淡々と描写する。

 第3楽章「永遠の記憶」はAdagio、強いて言えば三部形式。葬送行進曲風の重々しいピチカートに乗って、ヴィオラが革命歌《同志は倒れぬ》の旋律を絞り出すように奏でる。弔いの鐘を思わせる金管の暗い和音を挟んで音楽は次第に昂揚していき、怒りとも慟哭ともつかない痛切な叫びとなる。やがて力尽きるかのように弱まり、冒頭の主題がごく短く再現されたのち、沈黙のなかへと消えていく。

 第4楽章 「警鐘」はAllegro non troppo。決然とした金管楽器の動機によって開始され、群集が蜂起する様が描かれる。革命歌《ワルシャワ労働歌》が引用され、また第2楽章の行進の主題も壮大に変形され引用される。イングリッシュホルンによる追想の歌を伴って厳かに「広場」の主題が現れ、最後は革命の烽火が上がったことを告げる警鐘(チューブラーベル)が全管弦楽の強奏のなかで激しく打ち鳴らされる。非常に分かりやすく“カッコいい”終結部だが、我々は忘れるべきではない。この勇壮なフィナーレの警鐘によって切り開かれる未来が決してユートピアなどではなく、スターリンによって支配されたあのソヴィエトであるという事実を、作曲者であるショスタコーヴィチは “ 知っている ” のだ。

出典

iichiko presents ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団、ichiko総合文化センター iichikoグランシアタ(2012.11.8)、パンフレット。

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