【コラム】暴力は芸術に転化しうるか ――1905年の挽歌に寄せて

 暴力はキライだ。なにしろ痛いし、度が過ぎれば死んでしまう。けれど残念なことに、世の中には暴力が溢れている。だから、もしも暴力との不幸な遭遇を避けたいというのであれば、卑屈と知りつつ我が身を小さく縮めて生きる他ない。

 ただ、そんな社会的害悪=暴力を通じてしか描けない質の昂揚や感動があるというのも、きっと事実なのだろう。それは大火力で敵をなぎ払う爽快感なのかもしれないし、あるいは無残に散らされた幾多の命に対する共鳴なのかもしれない。いずれにせよ暴力は時に我々の心を大きく揺さぶる。そしてクラシック音楽もまた、そんな暴力を直接的に表現することがある。

 クラシックが暴力?と疑問に思われるかもしれない。上品でハイソなクラシックに、粗野な暴力など全く似合わないだろう、と。だがそうした幸福なイメージは必ずしも現実と一致しない。パンクロックともヘヴィメタルとも異なる圧倒的暴力を、クラシックはしばしば振るう。オーケストラを構成する数十人の兵士が一糸乱れぬコントロールのもとで叩き出す音塊は、物理的な音量を超えた破壊力であなたを張り倒すだろう。

 そんな音楽的暴力を体感する上で、ショスタコーヴィチの第11交響曲は最良の(したがってまた、最悪の)作品だ。1905年に起きた「血の日曜日事件」と呼ばれる出来事を題材に、帝政ロシア軍による民衆虐殺の様子が生々しく描かれる。銃掃射撃を思わせるスネアドラムと、それにつづく阿鼻叫喚の地獄絵図。そして全てが終わったあとの、底なしの静謐。

 同作におけるそうした表現を、B級映画的な低俗スペクタクルだと批判する向きもおそらくはあるのだろう。だが一方、そんな低俗で、醜悪で、耳目を覆いたくなるような暴力の渦の中からこそ浮かびあがってくる芸術の輝きも、きっとある。ただしその輝きに触れるには、まず一度、この苛烈な暴力と正面から向き合わなければならないのが悩ましいところだ。

 演奏はマリインスキー&ゲルギエフ。打ちのめしてもらうには申し分のない(むしろ強烈すぎるほどの!?)布陣だ。怒濤の大音響の果てに彼らが奏でるのは、一縷の希望だろうか。それとも、全てを覆いつくす絶望だろうか。

出典

iichiko presents ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団、ichiko総合文化センター iichikoグランシアタ(2012.11.8)、チラシ。

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