グスタフ・マーラー (1860-1911) 交響曲第9番ニ長調

 芸術家を創作へと奮い立たせるエネルギーの根源として、よく「エロス」と「タナトス」が挙げられる。これらのうち前者について説明の必要はないだろう。文学・絵画・音楽と、あらゆる芸術ジャンルにおいて性愛は遙か古代から欠くことの出来ない重要テーマであり続けてきた。一方、後者はあまり聞き慣れない言葉かもしれない。タナトスとは、一般に「死の欲動」などと訳されるものである。死を欲するという状況は日常的にはなかなか想像しにくいものだが、たとえば「全てを破壊し尽くしたい」という衝動に駆られたり、あるいは「この世の苦しみから解き放たれ安らかな世界に至りたい」と夢見たりする場合に当てはまるだろう。とりわけ、死後の復活を信仰するキリスト教的な世界観において、死とは必ずしも終焉であり破局であるばかりではない。

 G.マーラーの晩年の作品は、そんな「タナトス」によって強く彩られている。いや、作曲者自身は否定するのかもしれない。 事実マーラーは、自身の死をひどく恐れていた。第8交響曲が完成した後、第9番を書き上げるとそれが最後の作品になってしまうのではないかというジンクスに悩み、順番で言えば9作目となるべき交響曲《大地の歌》に番号を振ることを控えたという逸話は有名である。しかしそうした行動とは裏腹に、《大地の歌》にも、またその後に書き上げられた第9番にも、濃密な死の影がまとわりついている。とりわけ、本来快活であるべき第1・4楽章を敢えて緩やかなテンポに設定した第9交響曲の構成は、チャイコフスキーの《悲愴》交響曲を即座に連想させるものであり、両者は今日「死の交響曲」とでも呼ぶべき存在として、我々にその意味を問いかけてくる。

 作曲が行われたのは1909年から翌10年にかけてだが、結局マーラーの生前には初演されることがなかった。マーラーはそれまでの作品について、初演後にも繰り返し改訂を施すことを常としていたため、もし生前に第9交響曲の初演が行われていたならば、特に第2、第4楽章などは幾分異なったものに変化していた可能性が高いと言われている。

 第1楽章:Andante comodo ニ長調4/4拍子。短い序奏に続いて2ndヴァイオリンで提示される第一主題は、緩慢な呼吸を思わせる途切れ途切れの楽節。諦念の境地にも似た不思議な明るさに包まれている。対して第二主題は短調に転じ、より人間臭い情念を滲ませる。第一・第二主題をそれぞれ発展的に繰り返し、金管によって頂点が築かれた後、展開部は序奏の陰鬱な変奏で開始される。交響曲第1番から引用されたファンファーレがグロテスクに鳴り渡ると、音楽は昂揚しトリルやグリッサンドを多用した不気味な咆哮となる。長大な展開部ではその後も「躁」と「鬱」が何度か繰り返されるが、和声進行や旋律同士の絡み合いは極めて複雑かつ難解であり、聴き手を困惑させる。やがて葬送の鐘が響くと音楽は再現部に入る。フルートが中心となってカデンツァ風の楽節を奏でた後、曲は次第に熱を失っていき、眠るように静かな終焉を迎える。

 第2楽章:「緩やかなレントラー風のテンポで」、ハ長調3/4拍子。いかにもマーラーらしいエッセンスが凝縮されたスケルツォ。レントラーは9番以前の交響曲でも多用されており、彼の十八番であった。楽章はテンポの異なる3つの主題によって構成されており、ユーモラスなファゴットの伴奏で始まる第一舞曲、テンポを上げ多少の荒々しさを帯びた第二舞曲、ゆるやかな第三舞曲が様々に入り乱れる。

 第3楽章:Rondo-Burleske Allegro assai 「きわめて反抗的に」、イ短調2/2拍子。貪欲なまでの生命力がみなぎった楽章だが、その過剰な昂揚感は、短い生を自覚した夏の花々の「狂い咲き」を思わせる不気味さを湛えている。形式はロンドで、暴力的な主部に対し第一副次主題はいくぶん陽気なもの。いずれも調性が不明瞭でつかみ所がない。第二副次主題は最初おどけたように提示されるが急激にテンポを落とし、主部の喧騒を忘れたかのような安らかな楽想となる。この第二副次主題は、続く終楽章の主要主題とも密接に関係している。

 第4楽章:Adagio「非常にゆっくりと、抑えて」、変ニ長調4/4拍子。感傷的な旋律が弦楽器で提示され、蕩々とした流れに発展する。要所要所に差し挟まれるファゴットのモノローグも印象的。前楽章から引き継がれた回音音型に基づく主要主題は楽章の前半を占める長大な変奏として拡充され、やがてハープを伴奏に木管が歌う副次主題へと引き継がれる。回音音型を織り交ぜながら昂揚した音楽はいったんクライマックスを形成し、その後、主要主題が万感の思いを込めて再度歌い上げられる。最後は弦楽器のみのコーダとなり、「死に絶えるように」という指示に沿って消え入るように閉じられる。

出典

東広島交響楽団第10回記念演奏会、広島大学サタケメモリアルホール(2009.8.13)、パンフレット。

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