シューマンの《子供の情景 Op.15》は、彼の子供時代に想いを馳せて作られた小さな13曲から成るピアノ小曲集です。
この可愛らしい小曲集は、シューマンが28歳の時、婚約者であり後に妻となる恋人のクララ・ヴィークの一言から生まれました。
「あなたって時々子供みたいね。」
シューマンはこの言葉への返事として僅か2週間で30曲もの小品を作り、その中から13曲を集め、手紙を添えてクララに贈りました。それがこの《子供の情景》です。手紙には「あなたのおかげで小さく可愛いのが出来ました。この曲集は大人の回想で、子供が弾くための作品というよりは寧ろ年を取った人の為のものです。貴女はきっと興味を持ってくれるでしょう。」と書かれています。
1分に満たないほどの短い曲も多く、シンプルな旋律ラインゆえに初級レベルから楽しむこともできますが、密度の濃いロジカルな曲構成と高い芸術性、シンプルであるからこそ限られた音数の中で各曲の世界観を作り出す難しさはなかなかのもので、高度な表現力が求められる非常に奥が深い傑作となっており、質の良い「大人のための特別な絵本」のような作品集です。
各曲解説
- 見知らぬ国(異国より)
- 不思議なお話(珍しいお話)
- 鬼ごっこ
- おねだり
- 満足
- 重大な出来事
- トロイメライ
- 炉端で
- 木馬の騎士
- きまじめ(むきになって)
- 怖がらせ
- 眠っている子供
- 詩人のお話

これから始まる物語のプロローグ。期待や憧れと共に、未だ見ぬ異国の世界へと誘います。冒頭の音型(h-g-fis-e-d)は、この後に続く曲に何度も登場するモチーフです。優しく穏やかなメロディーは3声部で書かれ、それぞれを美しく滑らかに、且つ立体的な演奏が求められます。
冒頭の弾むようなリズムと抑揚のあるフレーズに、物語の展開に目を輝かせながら聴き入る子供たちのワクワク感が表れています。この16分休符を挟むリズム(もしくは付点)は、第6曲や終曲にも見られます。楽しげに始まったこの「不思議なお話」は、途中わずかに憂いのある影を見せ、また穏やかにホッと一息つきながら次々と進んでいきます。
左手に表情を持たせることがポイントです。4声のバランスとポリフォニーの響きをしっかりと聴きながら演奏しましょう。
演奏時間は30秒程度、高速なスタッカートで一気に駆け抜ける”追いかけっこ”です。
sfpは駆け出す瞬間を、アクセントは捕まえようとする様子など、速さだけに流されることなく強弱の指示に忠実に、緊迫感のある演奏ができると良いですね。主題4小節の和声進行には、この曲集のテーマである音型(h-g-fis-e-d)が隠れています。
第1曲「見知らぬ国」と同じh-g-fis-e-dのモチーフから始まりますが、G-durの「見知らぬ国」では穏やかで安定した曲の始まりだったのに対し、D-durの「おねだり」では宙に浮くような不安定な響きに姿を変え、満たされない思いと、チラチラと親の顔色をうかがいながらあの手この手で(笑)甘える子供の様子が表現されています。そして曲の最後の属七の和音にはフェルマータが付けられ、着地しないまま余韻を残して第5曲へと続きます。
※最後のFineにはどんな意味があると思いますか?
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属七の和音で満たされないまま曲を閉じた「おねだり」の、大きな解決となる喜びいっぱいの曲です。冒頭の舞い上がるようなモチーフは、対位法によって右手・左手にと何度も繰り返され、”満たされた幸福”そのもの、といった感じです。
さて、この曲の終わりは何処なのでしょうか。最後は終止線ではなく複縦線で書かれています。ということは、まだ曲の途中のはず。そしてここに表記されているD.C.(ダ・カーポ)は、どこに戻ればいいのでしょう?
この第5曲「満足」は、第4曲「おねだり」と対(つい)になっています。なので、このD.C.の行き先は「おねだり」の冒頭。そして「おねだり」最後のFineで演奏は終わります・・・というのが私の解釈なのですが、そう演奏する人はごく稀にしかいないのは何故なのでしょう…??
子供のおねだりはエンドレスw。人間の物欲は次から次へと、どこまでも満たされないのです(^^;
3拍子の曲ですが、アウフタクトから始まり(弱起)、インパクトのあるアクセントによって2拍子であるかのように演出されています。
「大変だ!家に帰ってお母さんに報告しなきゃ!!」
遭遇した”大事件”に高鳴る鼓動を落ち着かせるべく、一歩々々踏みしめながら歩き進むように、頭の中で何度も反芻するように。中間部では左手がはっきりと3拍子を刻みます。切れの良い音で、明確に1拍目が見える演奏をしましょう。
シューマンの残した全ての作品の中で、おそらく最も広く親しまれている1曲でしょう。
「トロイメライ」とはドイツ語で「夢見心地」という意味。よく「夢」と題しているものを見かけますが、ちょっと意味合いが異なるように思います。「子供の情景」の作曲は1838年、クララの父親から二人の交際を猛反対され、翌年には裁判にまで発展するという泥沼状態だった時期です。敢えて拍子感を曖昧にし、ふわふわと宙を漂うように幾度も繰り返される上行形のフレーズは、手に入らぬものへの憧れと切なさを歌うようで、中でも6度の跳躍に充てられたド(c)・ラ(la)・ラ(la)の音型にはクララの名が刻まれ、曲集の中でも一際美しさを放つシューマンの想いが溢れた珠玉の名曲となっています。
第7曲トロイメライと同じ音型から始まります。前曲から1オクターヴ高くなった冒頭は温かみがあり、暖炉のそばに集まって楽しそうに過ごす幸せな家族の様子が目に浮かぶようです。
軽やかなシンコペーションのリズムを伴った可愛らしい曲に聞こえますが、楽譜を読むと作りはなかなか複雑で、声部は5つもあり、各声部の弾き分けと横のつながりをしっかり意識して弾く必要があります。
シューマンは後に結婚したクララとのあいだに8人の子供を授かりました。残念ながら早くして亡くなった子供もいたのですが、この曲はシューマンが思い描いていた理想の家族像だったのかもしれませんね。
おもちゃの木馬に跨り、勇ましく剣を振りかざして騎士に扮する子供の様子が伝わってきます。きらきらと目を輝かせて夢中で遊ぶ子供さながら、アクセントを効かせた快活でキレのよい音で演奏しましょう。右手のアクセントが3拍目につく一方で、左手では大きな流れるようなフレーズに拍車をかけるように2拍目にポイントが置かれています。右左それぞれのキャラクターをしっかり弾き分けると表情豊かな演奏になります。
シンコペーションをタイで繋ぐことで拍感をずらし、意識を集中させるポイントを敢えて外すかのように流れる右手のメロディーに、音域を共有しながら大きく呼吸する左手が表情を添えています。流れ始めた旋律はわずかに進んではコトリと歩みを止めてしまい、まるで集中力がなかなか続かず、つい他のことに意識が移ってしまう子供の様子を表しているようです。左右の手が重なる弾き難さはありますが、聴かせるべき音と流れをしっかり意識して演奏しましょう。
相手を怖がらせようと、ドキドキしつつも息をひそめて出るタイミングを見計らっているのでしょうか。平穏なようでいて不安気な静寂は、気持ちを落ち着かせるかのように一時ふわりとg-fis-e-dが顔を出します。裏拍に変則的に付けられたアクセントや
sfは、ドキドキとはやる鼓動や、心臓が飛び出しそうなくらいびっくりする様子を効果的に演出しています。
楽節ごとに表現される情景をしっかりとイメージし、紙芝居を演じるように、シーンを切り替えながら演奏しましょう。
シューマンの子供の情景は、12の小さなお話(詩)と終章から成っています。これは12番目の最後のお話。スヤスヤと眠る子供の寝息のように、あるいは静かにゆりかごを揺らす母の優しさのように緩やかに繰り返されるリズムが耳に心地よく、永遠に続く平和と幸せを願う子守唄のようです。
12の詩を歌い終えた詩人によるエピローグ。詩人とはシューマン自身のこと。途中、レチタティーヴォで語られる旋律は、前年に書かれた「幻想小曲集Op.12」の第2曲”飛翔”です。「この小さな可愛いらしいお話はいかがでしたか?気に入っていただけたでしょうか。」
第1曲の「見知らぬ国」と同じG-durで、いつまでも続く祈りのように、静かに幕を閉じます。
演奏のポイント
◆タイトルはシューマンからのメッセージ
シューマンがこの作品集と共にクララに送った手紙には、「作品のタイトルは作曲後、理解や解釈の助けとして付けました」と書かれています。子供の無邪気さや好奇心、気まぐれな様子や小さな不安など、子供の気持ちを表現したいのか、あるいは大人から見た子供の様子を表現したいのかなど、各曲ごとに情景のイメージをしっかりと持って演奏しましょう。
◆全ての音に意味がある
それぞれの曲が洗練された3声や4声で書かれています。全曲演奏に取り組むのはもちろんのこと、お気に入りの1曲にじっくりと向き合うのも良いでしょう。初級者から上級者まで、楽譜を読み込む程に多くの学びがある小品集です。