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父たちの本棚

はじめに 
  この古本ほたるで紹介している本のほとんどは、私の父とパートナーの父、つまり義父が所蔵していたものです。
 二人は、もう、この世にはいません。義父は、2000年の1月に、そして私の父は、2005年の11月に他界しました。
 所蔵していた図書の数からいうと義父の方が圧倒的に多いのですが、二人には共通したところがありました。
 生前、二人とも、自分の本をどうするか悩んでいました。義父は、地域の公民館の図書室に寄贈を申し出たそうですが、逆に手がかかると断られたと言っていました。父も古本屋さんを呼んで,かなりの数、買い取りをしてもらいました。二人とも、本をどうするか、つまり自分が亡き後の処理をどうしたものか、その話を私に愚痴ともなく、聞かせていました。私は随分、前から古本屋構想を温めていましたが、仕事をしており、まだ、退職する勇気もなく、「古本屋をやるから全部残しておいてくれ」とは、はっきり言えませんでした。私の父には、本は私がどうにかするから残しておいてとは言っていましたが、それほど強い要望とは受け止めていなかったようです。

 そうこうするうちに、二人とも逝ってしまい、かなりの本が残されました。
 義父の家には、家人の手に余るほど、大量の本が残されており、私は、帰省の度に、義母にお願いして、もらい受け、少しずつ、自宅に運びました。

 それらの本を1冊ずつ手に取り、ページをめくると父たちと対話しているようです。父たちがどういう本を読みたいと思ったのか、興味を持ったのか、本はその人の内面、精神性を語ってくれます。
 この父たちの本を古本屋として手に取り、リストにし、望んでくれる人に手渡す作業をこれからの私の楽しみの一つにしていきたいと思っています。

 父たちが生まれた時代
  父は、1921年大正10年に、義父は1925年大正14年に生まれています。父は、酒に酔った時などに、自分は大正デモクラシーの申し子だと得意げな顔をして言っていました。きっとそれは父の原点であり、民主主義や平等、人権といった価値観を自分の考えや行動の規範としようとする意気込みだったのでしょう。日本で大正デモクラシーの運動が始まったのは、1913年の第1次護憲運動ですから、それから1925年の普通選挙法(男子のみ)制定までの民衆運動の高揚期に二人は生まれています。
 とはいえ、そういう父も、やはり、誕生まもない大正デモクラシーの思想が生活全般を支配するはずもなく、自分の生活にしみ込んだ家父長的、権威的なもの、あるいは世俗的なものと、時々葛藤もしていました。でも、父が不完全ながら大正デモクラシーの思想を大事なものと思っていたくれたおかげで、私たち子供たちは大変恵まれた教育環境で育つことができたように思います。
  
 父たちの青春
  しかし、父たちの青春はあっという間に、軍部の台頭、1937年の日中戦争、そして1941年の太平洋戦争へと飲み込まれてしまいました。1940年から1945年の第2次世界大戦で日本中が総動員体制となった時期、父たちは、16歳から20歳前後の学生時代を過ごしています。父は地元の師範学校を卒業して間もなく、、義父は東京の帝国大学在学中に学徒動員となっています。

 私の祖母は、生前、父が持っていた本をお蔵の天井裏に隠した話をしていました。きっと治安維持法で祖母や父が住んでいたあの田舎でも「赤い」「非国民」的な本は隠さなければいけないものだったのでしょう。父の所蔵本には,戦前のマルクスや西田幾太郎の本がかなりあります。流行ものが好きだった父は「マルクスボーイ」を気取っていたのかもしれません。義父の実家の古い蔵にも数々の戦前の「進歩的な」本が埃をかぶっています。

 こうした戦争状況下で、父たちは、好きな本を自由に読むことすら制限され、父は鹿児島へ、義父は熊本へと赴き,軍隊生活を送りました。そして1945年に戦争が終わったとき、父は23歳、義父は20歳でした。
 父たちの戦後
  父たちは、復員後、それぞれの郷里で仕事につき、5年後には配偶者を得て、3,4人の子供をもうけました。戦後の混乱期を生き抜き、その後の高度経済成長の世の中でいわゆる「働き盛り」を過ごしたのです。そして、父は1981年(昭和56年)に、義父は1985年(昭和60年)にそれぞれ定年退職しました。その後、数年は外郭団体や地域の専門委員を務めていますので、父たちが、おおよそ社会的な職務から離れたのは1990年代以降となります。
 
 父たちの所蔵本をみると、その頃から購入したものと思われる本がたくさんあります。 私の父はそう極端ではありませんが、義父は、それこそ片っ端から購入したのではないかと思われるくらい大量の本があり、それらの出版年の多くが80年代後半から90年代のものです。
 それまでは、生活費、特に子供の教育費などに、給与が割かれ、自分の本の購入は後回しにせざるを得なかったのでしょうし、仕事に忙しく、読書の時間も限られていたのかもしれません。それが、子供たちがそれぞれ就職し、経済的にも時間的にもある程度余裕ができたこの時期に、堰を切ったように本の購入に走ったのでしょうか。
 戦争に動員され、治安維持法下で手にする本を制限され、知的欲求を十分に満たすことができなかった青春時代から、生活に追われた壮年時代を経て、これまで抑えられていた知性への渇望をやっと解き放すことができたように見えます。
 父たちは、晩年、街の行きつけの本屋に足を運び、好きな本を物色するのが楽しみでした。

 父たちの本棚
  父たちの関心分野は人文・社会科学系です。古本屋ではあまり歓迎されない分野ですが、私にはホント、質の良い、内容的にもハイレベルのもので、よくこれだけのものを揃えたものだと感心させられるのです。
 父は、どれだけ理解していたのかは怪しいものですが、最後まで哲学にこだわっていました。残された本には付箋もよく貼り付けていますし、線も引かれています。
 一方、義父は、経済専攻だったせいか、実務書やビジネス書レベルの本もたくさんありますが、それだけでなく、政治、経済、社会、思想、歴史、読書論、芸術、とあらゆる分野にわたり、しかも日本だけでなく西欧アジア各国に関する本が並びます。
 義父に一度聞いたことがあります。毎週、雑誌を数冊、それにこれだけの単行本も買って、全部読むのかと。義父はこう答えました。「全部読む必要はない。本は見出しとページをめくるだけでも、おおよそのことは分かるし、今、何が問題となっているかが頭に入れば、それで良い。」と。本は、社会の動きを知っておくための情報源だったのでしょう。義父の本には、見返しに購入日が走り書きされ、帯の本の紹介部分を切り取って、裏の見返しにテープで貼り付けられたものが多く存在します。本を買う度にその作業をしていたのだと思うと、義父が本に向かう姿が浮かんできます。
 
 私が父たちを好きなのは、きっと父たちが本を愛したからだと思います。
 私の父が亡くなる前に、子供たちに薦めてくれくれたのは岩波新書の「生きる意味」でした。
 父たちに、もっと本の話を聞いておけば良かったと悔やまれます。
 せめて、残された本を手に取りながら、心の会話を試みたいと思っています。